
ゴッホのアウラ/2019/アクリル絵の具、水晶末、キャンバス/652 x 530 mm/作品形態 絵画/(c)Miho Kitamoto
Auras of Van Gogh/ 2019/ Acrylic paint, crystal powder on canvas/ 652 x 530 mm/ Painting/ (c)Miho Kitamoto


(左)この場所で~ゴッホのアウラ/2020/アクリル絵の具、水晶末、キャンバス/530 x 257 mm/作品形態 絵画/(c)Miho Kitamoto
(右)祝福の花~ゴッホのアウラ/2020/アクリル絵の具、水晶末、キャンバス/910x 727 mm/作品形態 絵画/(c)Miho Kitamoto
(Left) In This Place - Auras of Van Gogh/ 2020/ acrylic paint, crystal powder on canvas/ 530 x 257 mm/ painting/ (c)Miho Kitamoto
(Right) Blessing Flowers - Auras of Van Gogh/ 2020/ acrylic paint, crystal powder on canvas/ 910 x 727 mm/ painting/ (c)Miho Kitamoto

夢~ゴッホのアウラ/2020/アクリル絵の具、水晶末、キャンバス/530 x 257 mm/作品形態 絵画/(c)Miho Kitamoto
Dream - Auras of Van Gogh/ 2020/ acrylic paint, crystal powder on canvas/ 530 x 257 mm/ painting/ (c)Miho Kitamoto

Installation view : Miho Kitamoto solo exhibition "Auras of Van Gogh", Tokyo, JP, 2020
Installation view : Miho Kitamoto solo exhibition "Auras of Van Gogh", Tokyo, Japan, 2020
ゴッホのアウラ=画家の想念=画家のアウラ
これらの作品シリーズは発表当時「画家の想念」と題していた。個展前に作品の案がなかなか定まらずにいたわたしは三重県にある伊勢神宮へおもむきアイデアをもらいに行った。そこで「雲」のヴィジョンとゴッホのヴィジョンをみた。これらの作品は「ゴッホの作品」を「雲」で表現した作品であり、ゴッホといえば模写をすることで有名なので「模写」という形をとった。わたしは困った時には祖先に頼るようにしている。
伊勢神宮は神道であるから牧師の息子のゴッホへと繋がることは不思議に感じるかもしれない。わたし自身も血筋をたどれば源氏を経て天皇へとたどり着きながら大学では油絵科へ進んでいるから西洋と東洋がわけへだてなく人生に組み込まれている。
模写という行為は画家にとって非常に重要な行為で、「偉大なヴィジョン」へと繋がる行為の練習になる。このヴィジョンをわたしは当初、「想念」と呼んでいた。
それはゴッホの作品を模写している最中えもいえぬほどの感動のような感情に包まれた経験による。この感情がなんの感情かわからなかったので聖書などを調べるうちに「許し」という感情なのだということを知る。わたしにとって模写とは画家そのものに重なる行為なのでゴッホの作品すべてに共通するテーマとして「許し」が存在し、それが人々を魅了し続けるのではないかと思われた。
これらの経験はベンヤミンいう「アウラ」なのだとわたしは感じている。
他の人のアウラの考えについては調べてほしい。ここにはわたしのアウラの解釈を記す。
アウラとは場所のことを指す。日本風に言えば、その場所にただよう「気」のことだ。
わたしはこれをいつも「場所の気」と呼んでいた。
幼い頃から「場所の気」に非常に敏感であったわたしはそこでいつもヴィジョンをみる。
このヴィジョンがみえることをイメージといったり、よくヴィジョンのみえる人のことをイメージ力が強いと言ったりするが、ヴィジョンは画像に近いものだから絵を描くという行為にも繋がりやすいのだろう。
尊敬する画家の一人の横尾忠則氏が「画風を変えるなら引っ越しが一番だ」と言っていたが、
このヴィジョンはいつでもみえる。どこにいてもみえる。
でも、場所が変わるとヴィジョンは変わるこにわたしも気がついていた。
このヴィジョンとはなんだろう?
そこで過去にわたしの作品を「記憶」というシリーズの企画展に出品したいと連絡があったことを思い出した。それはわたしの作品が記憶を描いているように感じられたからだ。
過去の記憶とヴィジョンは多いに関係があると思ったのだ。
わたしのアウラについての話はここまでとする。
20世紀のドイツを代表する思想家ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の「複製技術時代の芸術」などで提起した【アウラ】をわたしはこう解釈する。
アウラがコピー(複製)には存在できない理由はここにある。
この場合の複製とは「機械」が作った複製のことだ。
ただし、機械が作った複製(写真)から人間の手によって「模写」をすると
そこにアウラが現れることがわかった。
これがこれからAIの時代をむかえるわたしたちとっては希望になるのだと実感した。
そこに居るということが、上でも前でもいいということが
この作品を通して、わたしが掴んだこの世界のヴィジョンだ。
2022.12.15